モットーは「誠実努力」、進取の気性を母胎に有し・・
西多摩初、貨物自動車による運送業発進す

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関東大震災で、獅子奮迅の活躍
創業の翌年、奇しくも関東大震災が発生。皮肉なことにこの未曾有の大惨事が、世の中に自動車輸送の偉力と便利さを知らしめるきっかけとなった。鉄道輸送が完全にストップしてしまったため、罹災者の輸送、再建物資の運搬等に貨物自動車が大活躍。交運社の2台のシボレーも利益度外視で、福生と東京を往復した。この時、シボレーで避難してきた人々の中にはそのまま居を構え、今も福生に暮らしている人もいるという。
昭和に入り戦時色が強まると貨物自動車も徴用され、ここで主力を部品販売に切り替えたことが結果的に、戦後の混乱を乗り越え、本格的な自動車整備事業を展開することを可能にした。
田村社長によれば「昭和32年当時、零細な町工場ばかりの自動車整備を事業としてとらえたのは斬新なこと」という。まさに、先駆けを成す創業者の精神そのものだ。
「昔から"地域のため"が基本で、モットーが"誠実努力"。23区との格差を商売の上で解消していくことが、地域発展につながるという考え方でやってきました。たまたま、自動車関連の事業が多いのですが・・」と田村社長。「ですが・・」と、ここで社長が言葉を置く。「今は、これまでとは時代が違う。今後は都心にもないような新しいものを福生から発信して、逆に人が流れてくるようにしないと・・・」。手探りであっても、常に時代の先端を見据える姿勢は、間違いなく、80年前の孫次郎氏そのままだった。

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時は、大正11(1922)年。西武鉄道や東京急行が開業し、第2期私鉄ブームの頂点といわれた年に、福生村福生にシボレーの貨物自動車が2台やってきた。これが、自動車運送業「合資会社交運社」の創業だ。
自動車が日本に上陸した明治23年からわずか22年、全国の自動車保有台数は1万5千ほど。まして田舎町の福生では、車なんて大抵の人が見たこともない代物。こんな時代に一人の若者がここ福生で、自動車を使った商売を始めたのだ。
交運社の創業者・田村孫次郎氏は、勤務先の製糸工場へドイツ製のオートバイで通勤していたという、6代目の田村社長曰く、「新しいもの好きな人」。製糸工場で貨物自動車を初めて見た瞬間、田村青年はクルマの持つ偉大な可能性を直感したのだろうか、仲間5人で輸送業を興す。これが西多摩における、貨物自動車運送業の草分けとなった。
開拓した輸送ルートは、東京―青梅間。所要時間は片道3時間。青梅から木材、野菜、食肉を、東京から雑貨や鮮魚などを運ぶ。「薪で走る自動車だからいつ着くかわからない。故障も多いし、運転手が酒を飲んで帰ってくることも・・・。最初は多難だったようですよ」と田村社長が笑う。創業者の進取の気性が、ビンビンに伝わってくるではないか。