時流に流されず、ただわが道を
アメ横から、福生へ

根底に流れる、江戸っ子・職人気質
建次さんの流儀は、「頼みにきた大家さんの仕事はやるけど、『やらせてください』とは言わない」ということ。ここに貫かれているのは、江戸っ子・職人気質の美学といえるものだろう。「『海苔、まけて』という客には、『味噌汁で顔洗って、おととい来い』なんてのが、当たり前の商売だったようですよ」と禎尚さんが苦笑い。
だからこそ健次さんは、「大家さんのために、人のために」と骨身を削った。12年間、組合の理事を務めたのもその表れだ。「儲けに走らず、やるべき仕事をきっちりと」、すなわちこれこそ、創業以来の信条となる。
不動産業界狂奔のバブル期。健次さんが貫いたのは、「時流に流されず、わが道を行く」ことだった。「いつか、自分で自分の首を絞めることになる」と世を達観し・・。
昨年、健次さんは第一線を退き、今や父の後を継いだ禎尚さんと夫人の美佐良さんは、「お客さまにとっての、オンリーワン」を目指し、今日も明るい笑顔で客と誠実に向き合い続けている。











露木不動産の創業は、昭和47年7月。禎尚さんの父、健次さんが43歳で始めた事業だった。
露木家はもともとアメ横で、海苔店を営んでいたという。祖父は「葛篭(つづら)屋」を営む竹職人であったと聞く。浅草の海苔屋はその後、東京大空襲で焼け出されるものの、健次さん兄弟は「掘っ立て小屋」で浅草の地を守っていた。やがてシベリアから兄が復員してきたのを機に、健次さんは浅草を離れ、蕨市で化粧箱を作る「箱屋」を営む。昭島にいる箱屋の仲間から「こっち、こいや」と誘われ、福生の地へ。昭和37年のことだった。
その後、健次さんは「宅地建物取引主任者」「同業者免許」を取得。露木不動産を現在地で開業。今や福生にある同業約80店舗の中で、最も古い老舗となった。